第11講 エネルギー・環境問題と科学技術

 ここでは特にエネルギー資源利用についての、世代間倫理を主題にしていますが、現在ではそれは、CO2による気候変動について語られることの方が多いようです。また技術者、企業の不祥事が相次いで報道され、社会的にも大きな問題となったのは2000年代初めですが、当時はその余波が残っていました。そのような時代の変化はありますが、内容自体は今も変わらず該当するところが多いように思います。   (2020年6月)

(「昨日今日いつかくる明日―読み切り「エネルギー・環境」―」(2008年刊)より抜粋)

環境をめぐる諸問題と動向   

 エネルギー・環境問題は、地球規模でかつさまざまな要因が入り組み、重畳した複雑な様相をもつものであり、その影響はわれわれの子孫にも、またこの地球上に生を受けた全ての生き物にも及ぶ。1966年K・ポールデイングの「宇宙船・地球号」、 1969年 J・E・ラブロックの「ガイア仮説」、1972年ローマクラブの「成長の限界」などの提言・警告によって、人間はこの有限な地球システムの一員に過ぎず、資源や環境の制限から逃れることはできない、との認識が高まり、1992年のリオデジャネイロの地球サミットでは、国連主導のもと「持続可能な発展」が人類のめざす基本目標として掲げられた。

 また「環境と開発に関する世界委員会」(ブルントラント委員会)では持続可能な発展とは、「将来の世代の要求をみたしつつ、現在の世代の要求も満足させるような発展をいう」と定義づけている。その具体的意味については、さまざまな解釈や批判がなされているが、21世紀世界の共通のキーワードとして定着しつつある。

 このような過程の中で米国を中心に環境倫理学についての議論も進み、従来の倫理学の枠組みをこえる見直しがはかられている。中心的な課題の一つは、このまま進めば必ず訪れるであろう資源枯渇と環境汚染について、現状では経済的・政治的・法的にわれわれが責任をもつには不十分な、発展途上国・経済後進国の人々、われわれの子孫、われわれ以外の動植物に負担させることが正当か、との問いかけであり、これらの考察を通じ、他者との関わり、自然・生物・地球との関わりを反省克服し新たな価値規範を見出そうとするものである。

 現在、すでにエネルギー・環境問題の解決には政治経済のしくみと力が必要不可欠となっている。今後もその度合いは更に強まると考えられる。逆に社会の意思決定にはエネルギー・環境に関する科学的知識、技術的見識が必要である。しかしそこでは、将来予測が主要論点となるだけに不確定性が大きく、かつ現実なものとなった時には手遅れとなる問題が多い。従って、最適な社会的判断・合意となるよう、政治、経済、法学、倫理学などの異領域の研究者の連携・融合と教育が必要である。

 また現在の産業、またそれを担う企業は科学技術を基盤として成り立っており、社会はそれに関わる科学者、技術者が倫理的に行動することを期待している。環境倫理学は主に哲学をはじめとする人文科学の側から提起されたものであるが、特に環境問題や有人宇宙船「チャレンジャー」などの巨大事故に端を発した社会的責任意識の高まりを反映して当事者である技術者の側から、自らの行動を律すべき技術者倫理、工学倫理はいかにあるべきかのアプローチがなされ、多くの学会などで綱領が制定されている。

 ここでは、エネルギー・環境問題に実際に立ち向かっている科学技術者とその取り巻く状況をみてみよう。

世代間倫理とエネルギー 

 環境倫理学の提示する具体的な課題として例示されるのは、第一に人類は有限の地球資源・環境の中で如何に生きるべきか、第二に現在の世代は将来の世代の人々の資源・環境に如何に責任をもつべきか、第三に人類だけでなく鳥獣、草木を含めた生物の生存権を認めるべきか、即ち、それぞれ、発展途上国と先進国、現世代と将来世代、人類と他の生物の関係などである。絶滅危惧種であるツシマヤマネコの死亡原因のトップは交通事故(ロードキルと呼ばれる)、などと聞くと人間と生物の関わりについて、ある感慨を誰しももつ。地球46億年の歴史の最先端にいるのは、ヒトだけではないのである。ここでは、特にエネルギーに関連する、第二の問いかけについて考えよう。世代間倫理の問題の具体例として、数億年かけた地球活動の賜物である化石燃料を、我々の高々数百年の世代で使い切っていいかという問いである。

 即ち、化石燃料は特定の世代のものか、地下からこれを掘り出し利用するだけの知恵と技術とをたまたま持つ事になった世紀から22世紀の人類の独占物としてよいか、いまや本件については故意を有していることの明らかな我々の、将来世代の得べかりし利益簒奪に対する責任は、ということである。刑事法でいえば、現世代の化石燃料消費は占有離脱物横領罪というところだろうか。しかし化石燃料を残さなかったからといって、300年後に責任をとる人はいない。民事でも「私権の享有は出生によって」しか始まらないから、そもそも未来世代の法益は認められない。だからこそ倫理の問題として顕著にあらわれているのである。

  第一講でも述べたように22世紀中に石炭の過半が消費尽くされるとすると、人類は産業革命以来わずか4百年で化石燃料を使い果たすことになる。人類数十万年の歴史からすれば、まさに一瞬であり、また文明開闢からの4千年に比較しても極めて短い。それも利用しやすい化石燃料である石油、天然ガス、更には石炭でも良質の瀝青炭、無煙炭から使いつくし、後の世代ほど取り扱いが不便で公害成分を多く含む、オイルシェール、タールサンドのような重質油、また石炭では低発熱量で灰が多い褐炭や泥炭などを使わざるをえなくなる。海底のメタンハイドレートを掘削採取するにしても、或いは海水から濃縮するウランを原子力燃料として利用するにしてもコストと労力を要するものであろう。化石燃料が貴重になる何世代か後の我々の子孫からすれば、また所有者が特定地域に偏っている事実をおくとすれば、現在の石油価格は、現状の単純な市場メカニズムで決まっているに過ぎず、長期的かつ本来の価値からすると破格の廉価で叩き売られていると思うに違いない。

 化石燃料という次世代に引き継ぐべき地球の資本を一挙に食いつぶし、加えて地球温暖化、酸性雨での湖沼死、放射性廃棄物などの負の遺産を残す。人類は今、この化石エネルギーを使うことによって、生命の源である光合成の原料であり、気温・気候の調整機能を有し、生態系に決定的な影響を及ぼす大気中のCO濃度を気ままに繰ってさえいるのである。自分に一つの満たされぬ欲望があるならこの世は暗黒というサド侯爵の主人公のような人は全くの例外の筈である。にも拘らず、事態を充分に承知しながら、かつ地球資源は「祖先から貰ったものではなく将来の子供達から預かったもの」と殊勝な思いを抱きながらも、結局石油をがぶ飲みして欲望を満たした今の世代を、我々の子孫たちは如何に評価するだろうか、ということである。

 この問いかけの前提にあるのは、残念ながら今後エネルギー問題(正確には一次エネルギー)についての大きな技術進展は困難ではないかという、一時代前なら余りに悲観的とさえいっていい予測である。端的にいえば、高速増殖炉や核融合が、明るい将来を約束してくれていれば、また科学技術の大革新に対する信仰・信念が健在であれば、化石燃料枯渇も確かに重大な問題だが、今のように際立った倫理的問題を提供することにはならなかったに違いない。

  少なくとも、当面は喫緊の課題である地球温暖化対策としても有効な太陽光・風力・バイオマスなどの再生可能エネルギーの目処がつき、それが化石燃料と同等の価値と認められるまでは、我々のさほど遠くない子孫達の生活を真摯に思いやる人々の眠りは浅くつらいだろう。しかし一方、我々とて生まれ出る時代を選べた訳ではない、戦争があり不自由な生活があり貧困があり、それぞれの時代の制約の中で生きてきた。人類が数百年先をある程度でも本気で展望する余裕をもったのはごく最近であって、我々は後世の人の為に最大限努力するが、人間はみな所与の時代の制約の中で生きて頂くしかない、という考えも成り立つ。比ぶべくもない状況は勿論あるが、江戸時代、3000万の日本人は、太陽からのエネルギーのみで、つまり化石燃料、原子力を用いずに循環型の世界を築いていた事実は、確かに多くの人を深い思いに誘うものである。

技術者倫理とエネルギー・環境 

 日本でも最近、工学系の学会が綱領の形で会員に対し適切な倫理観をもつことを求めるようになった。先の環境倫理学とは異なり、当事者である技術者自らの合目的的活動であり、自己規制である。ただ、このように技術者倫理あるいは工学倫理が声高にいわれるのは、技術者を現状のまま放置すれば、世界を退廃の方向へ導く危機を胚胎していればこそともいえる。欲するところに従って矩を越えなくなるには、東洋の聖人でさえ70の齢を要した。まして30、40歳台の技術者・科学者が習得した知識技術を駆使して、欲するがままに行動されては何が起こるか知れたものではない、倫理綱領の形でいくらかなりと人為的な規制をかけなければ、という事態なのであろう。技術者は科学技術が日々大量に生み出す多様な価値、その中にはある観点からは負の価値と評価されるものもあるだろうが、それらを自ら判断し均衡をはかりながら行動するよう、明確に要請されるに至ったのである。

 ただ倫理となると幅が広い。例えば、現在の地球温暖化防止のためのいろいろな仕組みの一つである「CO2排出権取引」をみても、いかにも米国流であって、本来、省エネルギー技術開発の努力や、個々人あるいはその集合体である組織の節約などによって達成されるべきものを、露骨に「金銭」で処理するなど通常の倫理感覚からすると、異様にも思われる。しかし「早期に最大多数の最大幸福」を獲得するための効用を強調すれば、これも倫理的行動として評価し得るのである。

 第一、技術者倫理の具体的内容は何か、となると難しい。悪辣な技術者を洗脳して善人に仕立て直すものでは勿論ない。また技術者としてこの経済社会で処世する為の倫理では意味がないことは当然として、単純に遵法ということでもないし、また、訴追には至らぬものの「技術者としては重い」違法事に手をださない、ということであれば、何も倫理をもちだす迄もない。現状尊重を基本にせざるを得ない「法」と、万古不易の人の道を求める「倫理」と、日々進歩せざるを得ない「科学技術」、これら本質的な性格を異にする三者の相克は、活発な議論の対象として不足はない筈ではあるが、しかし、技術者の倫理とは、結局は技術者の誇りと責任を常に心に喚起しながら行動すること、という以上には困難のようにも思える。例えば、本講に例をとれば、温暖化の元であるCO2削減に貢献しているという誇り、現在の世界の最も主要な課題の一つに関わっていることの責任というようなものである。

 確かに、エネルギー・環境の分野は社会・経済と相渉る要素が強く、技術者倫理との関わりも大きい。例えば原子力や、環境ホルモンなどを想起するまでもなく、安全・福祉に直結し、個々人の人命や健康につながる重大なテーマであるから、その面からの倫理性の重要さを指摘することができる。即ち、具体的にはエネルギー・環境に関与する技術者は、技術者倫理の最も著名な標語であり、チャレンジャー事故からの教訓である「技術者でなく経営者の帽子をかぶって考えよ」との圧力に抗する、いわば受身の倫理だけではなく、たとえば、自らが開発する製品・機械・プラントについて、新たな環境被害を出さないような配慮は勿論、その生産から廃棄までのライフサイクルで、十分な安全性を確保し、最小限の資源消費、環境負荷になるような日常的対応を要請されているのである。

 さてそのような、今や科学技術上の成果を期待されるとともに倫理性をも明確に求められるようになった科学技術者、彼らなくばエネルギー・環境問題の将来展望も開けないことは万人が認める科学技術者とはどのような存在なのであろうか? 現在の一般の科学者・技術者の役割について考え、その生態を垣間見ておくことも無駄ではないだろう。

科学技術者の現在  

 「科学」はその名前もまだない16、17世紀の欧州で、多くは有力なパトロンの庇護の下での研究や、有冨貴族自身の卑近な或いは崇高な趣味的実験に端を発したが、彼ら知を愛するアマチュアたちのひっそりした所業は、大きく発展して現在では実際的な問題解決とそれに直結した企業・国の利潤追求の手段である「技術」と分かち難く結びついて「科学技術」と称されている。「高校生が『科学』の先端『技術』に触れる」などと使われて、一般には区別もなきが如き関係になった科学と技術であるが、特に20世紀初頭以降、科学技術は怒涛の勢いで成果を上げ続け、広くその効用は認知されてきた。それはまた一方では、科学者・技術者数の加速度的な増大と集団化、サラリーマン研究者・技術者への変貌の過程でもあった。

 牧師の発明になる外燃機関「スターリングエンジン」、裁判官グローブ卿を祖とする「燃料電池」などと発明の歴史が続けば、なかなか愉しいが、エネルギーの研究に限らず現在ではとてもそうはいかない。専門の教育を受けたプロの科学技術者が、大掛かりな予算・装置を駆使して開発に当たる。そして、今や、科学技術は産業社会の最大の闘争手段となり、その度合いは日々強まっている。科学技術が崇高な使命感をもって考えられていた牧歌的な時代は、完全に過ぎ去ってしてしまい、直接間接に関わりのある企業は言うに及ばず、国家、個人もこの闘争に勝利すれば経済成長と幸福が、敗北すれば逆に停滞と苦悩が、と誠に単純明快である。

ロバート・スターリング(英、1790-1878)

スコットランド教会の牧師となったが、赴任教区で蒸気機関での爆発事故での災害が多いことに心を痛め、それに替る動力源として、「スターリングエンジン」と呼ばれる外燃機関を発明

ウィリアム・グローブ(英、1811-1896)

判事としての法廷の仕事を病気のため中断している間に、科学的研究に興味を持ち、1839年、28才の時、燃料電池の実験に初めて成功した

  このように、科学技術の開発に従事することは企業・国家の、現在と将来を左右する最もすぐれて経済的な行為の一つであるから、それを担う科学技術者もまた、経済原理の繭に厚くくるまれている。しかし、実際の行動としては、科学者技術者は一般に個別の分野、個別の要素テーマでの革新的な成果・発見を目指している。また、それで評価され、特に大学では人生も過半は決まるといっても過言ではない。一般論、俯瞰した概論は諸雑務をも含め統括する立場となって初めて意味をもち、そのとき多くは現役ではない。研究者は科学技術自体や、属する学問、研究分野の全体が重大問題を孕んでいようと、ある部分さえ深く究めれば、ひとまずは役目を果たし生活も保障されるのである。

研究開発競争と研究費

 そのためには研究費、開発費を獲得することが必要不可欠であり、彼らは全知全能を傾け巧緻の限りを尽くす。最近の研究者、技術者は確かに研究開発費のためには、相当のことはするものである。本質的な科学技術動向は勿論であるが、流行にも敏感でないといけない。流行をいかにつくれるか、その主役になれるか、主流に乗れるか、その尻尾にすがれるかは研究費獲得の重要な要素であり、研究費がそのようなものに重点配分される仕組みであれば今の科学技術者に抗うのは少なからず困難である。本来「エネルギー」の研究は、射程距離の長い長期的観点からの継続的な取り組み、研究開発が必要な分野の代表格であって、ブームや派手な立廻りとは無縁であらねばならない筈であるが、周知のとおり、この分野も例外ではない。いつかは通り過ぎて行くものと思っても大声で唄われている時はそれに和する方が得策である。一番困惑するのは以前から律儀に取り組んでいて、またライフワークと心決めしていた人達であり、流行が過ぎれば忽ち忘れ去られ、逆に成功しなかったテーマのレッテルで見向きもされない事態にもなる。

 17世紀揺籃期の科学者は発見した事実の真偽をかけて議論することを本意にしていたであろうが、今、大半の科学者・技術者は研究開発費獲得のために主要な議論をしているという様相が強い。当然、例外は多々あろうが、個々人の好奇心の充足は勿論、真理探究は二の次、運よく型にはまれば別だが、行きがけの駄賃以上では決してなく、生活の保障、或いは昇進・社会的栄誉など生活者の経済行為としての比重がより大きい。

 しかしこれは別に嘆き悲しむべきことではない。経済発展を優先した社会の要請は、ある程度その通りに実現され、それは同時に資源涸渇やCO2による温暖化、環境汚染問題を招来する社会構造を生んだが、その構造の中で科学技術、また科学技術者も必然的に上記のような安定した存在形態を獲得したともいえる。つまりは、時代が当然のごとく推移した結果というだけであり、乗り越えられるべき状況と課題をもって進行する、現在の我々の世界の仕組みの一つに過ぎない。

 事実現在も、このような環境や条件の中で、時に逸脱して葬り去られてしまう少数を除けば、技術者としての倫理感、科学者の良心にも従いながら、世界中の科学者技術者が、生身の人間として創見・創意を競い、胸躍る開発競争や、一番乗りの発見者、開発者の栄誉をかけた研究開発に励んでいる。そして良否は別にして、大多数の科学技術者が参加したこのような競争こそが、科学技術と産業社会の大躍進の原動力になっていることも否めない。つまり実際の現場について見れば、外側の柵のあり様が少々変わっただけである。例えば、多くの人が子供の頃愛読したであろう成功した科学者の伝記では、彼らは高潔な人格、たぐい稀な忍耐力、高邁な理想、人を惹きつける巧みな話術などといった、好ましい属性をもつ人物として描かれることが多い。傑出した科学者・技術者についての賛辞の表現は今後とも大きくは変わらないであろう。

エネルギー・環境技術の研究開発

 しかしながら当然問題もある。個別の技術を磨き、未知の分野を切り開く、そのために呼吸し、苦吟しながら歓喜を勝ち取るべき場所にいる彼らこそが、当然ながらその技術の将来性や、実現可能性をニュアンスも含め正確に判断し、方向性を最も高い確度で示しうる。即ち、その現場に実際居合わせないと判り難い事情があり、機微があり、その積み重ねの上の判断こそが重要なのだが、危惧すべきは、その彼らこそが、同時に研究開発を進める上での当該分野の最大の「利害関係者」になってしまったことである。本人も、私情を去ることが至難だから、将来を見通すのに曇りがかかることもあろう。端的に言えば、彼等の意思表示は自らの研究開発費と無縁ではありえず、利害関係に色濃く覆われざるを得ない仕組みになっているのである。そして他の分野は知らず、多数かつ多方面・多様な知見を共有すべき、エネルギー・環境分野では、これは好ましい情況とは言いがたい。

 また「エネルギー・環境」は重点技術としてバイオテクノロジーや、情報技術、ナノテクノロジーと並べられるが、性格としては他の分野に比較すると、やや泥臭く、プラント化などの総合技術の要素が大きい。個別の技術に少々の疵があっても、また事実関係に曖昧な部分が多くとも、全体は進めないと時機を失する、という面もある。即ち、個別要素技術の革新も勿論必要だが、全体構想、システム化、或いは啓蒙といった研究者としては従来評価され難かった部分が大きな意味をもつ。

 エネルギー・環境問題の最も顕著な特質の一つは、「完璧な部分」より「疵は多くともまっとうな全体」が重要、ということである。参謀本部なき局地戦でいくら勝利しても、解決に近づかないばかりか逆効果でさえあり、問題の性格上、一回性が強いからリターンマッチは不可能である。時間的余裕はない、しかしまた、ここ10年程度の期間、何とか平衡を保つような綱渡り的対策では、勢威を増して隆起してくる筈の新たな難局に対処できないことも明らかであろう。当然ながらその性格にあった、戦略や研究開発手法が必要ということである。