「雑説 技術者の脱炭素社会」自解 優游 ( ゆうゆう )

はしがき 

 改めて思い返すに、今、いくら新刊本の多い出版界でも、わざわざこのような文語体で書かれたものは、殆どないであろう。もちろん、古典や昭和初期までの小説評論の再刊などを除いて、新たに書かれたという意味でのことである。まして、現在世界での緊急課題となっている「脱炭素社会」をテーマにした技術に関するものである。もとより、いろいろと考えた末の内容であり文語文であったが、このままでは、やはり一般の理解は得難く、一老生の片々遊戯の作と見做される惧れなしとしない、という次第で、ここに自解するものである。

 初版本を手にされた方には、技術を扱った本にしては薄く文字数が少ないことに戸惑いがあったかも知れない。本編は文語文でじき読み慣れてくるとは思うが、それでも通常現代文と比べれば優に三割増しの読感はある筈で、読者にとってもまたこれ位が分量としても程よい感じではと勝手ながら推察したものである。また日頃見慣れない漢字も多数使っており、年若い諸君にはエネルギー・環境問題と漢字の勉強の一石二鳥、一箭双雕の効果を密かに期待するところである(あとの四字熟語を読めない文系の方も是非、というより、関係の業務に当たっておられる決して少なくはない文系の方にこそ読んでほしいという気持ちもある)。

「時に面白をかしく格なほ失せず、孫樹先生文つくり拙きながら、これ常は苦心置くところなるが、改めて辿り返すに、ことの性格また力量のしからしめるに依らん、その余裕なきの憾みなしとせず」 

 本篇の最後に近い部分にある反省文である。本自解ではできるだけ「面白をかしく」の部分を多く、と思って書き始めたのであるが、草稿の頃にはいくらかあった面白おかしい記述は宙に浮いてしまい、結局、整えて角をとるか、削除していつの間にか生真面目なものになってしまった。また末尾に<呵呵>、<笑>などをつけるべき韜晦文、「 閑話 ( あだしごと ) 休題 ( はさておきつ ) 」に ( かず ) けたおかしみのある話、これらはやはり公けにするとなると途中で割愛せざるを得なかった。諷するところも多い本篇文語文の方が、或る人達にとっては「あはは」と声が出る面白さがあるように思う。内容をできるだけ判りやすく穏当にという技術者の性がでたものであり、願わくば諒とせられたい。

 さて、本篇は多く「ある人」と主人・孫樹先生の対話のかたちをとっている、最初は、出来れば、三者鼎立の議論の形でと考えていたものである。すなわち無条件積極的に脱炭素を進める者、その必要性は認めながら程度の差はあれ疑問を呈する者、その二者を調整しつつ別論を述べる主人という形である。ただそれを書き分けるほどの能力はなく、またその意欲も湧かず、結局はいま見られるような、いろいろな「ある人」が所論を述べ、主人がそれに反論するのではなく、補足したり、時に傍観者風の見解を示すという形、すなわち全ては筆者の所論、所感を述べるということになった次第である。

 文語文といい、対話の形といい、著者としてはかなり思い切ったことを書くつもりでそうしたのであるが、結局はいろいろな所に配慮・忖度してしまった憾みがないではない。とはいえ、この分野の技術者としての譲れぬ一線は越えてはいないつもりである。

 本篇の個々の内容は一応、テーマごとに独立して、「序」のあとはどこからでも読めるようにはしているが、全体は次のように構成している。

 冒頭に、今言われる脱炭素社会のそもそもの根拠であるCO2による温暖化、続いて最近10年ほどの急激な世情の変化について概説した。エネルギー利用の原則や技術者の立場、エネルギー利用についての歴史的経緯などの一般的記述がつづく。いずれも厳格な論証を欠いた技術者らしからぬものであり、また例外も多いから「基本的には」という断りの頻用もこの本の性格上致し方ない仕儀である。

 たとえば、次のようなものである。

「脱炭素社会への転換、これ実に社会の基盤たるエネルギーの供給・利用体系の転換そのものなれば、一国の興亡に深く ( あずか ) るあり、また ( そう ) ( そう ) の変なくんばあらず」。

「けだし世にある情報、多く自発して考へるがための端緒にすぎず、この分野の今、別してしかり。「完璧なる部分」は殆ど意味なさずして、「疵多けれど真つ当の全体」こそ肝要なること、エネルギー・環境問題の顕著なる特質が一つと目すべし」。

「すなはち現在の化石燃料、資源の濫費 ( たと ) ふに、往昔薪炭バイオマスのことを以てす。前轍見ざれば、後車の危ふきあらん。また今、温暖化気候変動問題の急となり、物語思ひがけず早や 蔗境 ( しゃきょう ) に入るの概あり。他は今おきて評さず、この人類にして、脱炭素がため石油の使用、自発的に抑へ止めるを得るや、といふことなるべし」

 発言者「ある人」の言辞は徐々に激しくなっていく。最後に近い部分で、「ある人」が、酔いにまかせて、過激ともいえる口調でいう。

「方今のエネルギー・環境問題、複雑極まりなきものなり。三思を以てなほ足らず、その複雑に歯食ひしばり、身悶へして発せる艱苦の言、信用すべく誠実の証ならん。対するに地球を救ふ、未来を救ふ、これ切り札など大仰標語がもとなる単調の楽観、また全体慮りなき一部一方的の論の類、悉く顧みずして可らんや。」

 また続けていう。

「物換はり星移れども、エネルギーは人類また国家の命綱にして、少なくもことこの分野にして、性善に看ること、これ不可ならずや。而して、今一番の懸念、低炭素・脱炭素の勢ひをみ方便となし、実は相和して目先の功利守らんがため、エネルギー資源多大に使ひ、環境損なふことなるべし。これ元よりあるべきに非ざることと雖も、俄かに杞憂と断ずるにふものあり。この域、永らく動かし主導し来たるは、熱力学、物理化学の原理原則なりしが、今、何やら違ふものに替はりたるの感あればなり」

 それに対して、主人は慰撫とも日和見ともとれる楽観で応える。

「案じ煩ふに過ぎること、今、甲斐なし。高きより俯瞰すれば、往くべきへ往き、収まるべきに収まる、而してそこ、理より出づるところのものより遠くはあらざらん。されど、その間なる道、眼前の光景見慣れずして、解するに易からずといふ、世に多き進み方の例と了簡すべし」。

 そしてその前の、事の変に困惑する「ある人」の「われ、かくなることおもて技にして久し、いつのまにやら旧弊人とはなれり」に、主人 は「しかり、われら既に歴たる旧弊人旧紀元人なるべし、それ自覚あるうちく退くにしかじ」と同意する。

 最後に主人は「脱炭素社会」についての総括的講話をしたのち、「われ既にこのことにおいて尽くせり」として、以降本案には関心を向けぬことを決意する、というのが大要である。

 以下に本編から切取っても比較的まとまっている文章の若干を抜き書きし、技術エセ―風の解説を加えたい。前半は脱炭素に関連する一般的事項、後半(12節以降)は直接的に脱炭素に言及した内容とし、小表題をつけて、これも一応はどこから読んでもらっても構わないようにしている(残念ながら本編にでてくる順序通りとはならなかった)。ある程度一貫してまとまった分は、「あとがきにかえて」と本篇の「15.脱炭素考 講話の事」であり、時間に余裕がある向きには最後にこれを一覧頂ければ幸いである。なおこの自解はあくまで本篇理解の扶けとなるようつくったものであり、双方の記述内容に矛盾など感じられた場合は、本篇に依っていただきたい。

本文は「雑説 技術者の脱炭素社会(改訂増補版)」(2023年11月、梓書院)の「自解優游」の一部です。

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(長崎総合科学大学 バイオマス研究室)