11.経済と脱炭素社会

   「雑説 技術者の脱炭素社会」の自解(11/21)

けだし今の世、経済のことなくして寸刻だに動かず。「名月や銭かねいはぬ世が恋し」、この上五つけれる昔まだしもとなすべけんや。屋上に太陽電池パネル設 るに、それつくるに要せしエネルギー、かつは排出CO2回収する年月より、投資費用回収するに要する年月の ( おもんばか ) り重き、これまた自然のことなり。

 「名月や銭かねいはぬ世が恋し」、今は上の句「名月や」をつける風流心・余裕もないのでは、という意である。これは明治時代の俳人岡野知十の句で、当時は、あの月への往還・着陸など思いもよらなかったことであるが、銭かねに対する想いは今も余りかわっていないようである。歎ずべきか、それとも人間社会での経済の役割の大きさを改めて思うべきであろうか。ちなみに、「月光読書」という貧乏勤勉書生の中国故事からの4字熟語もあるが、その光の強度は、満月でも太陽の40万分の1程度であるから、太陽電池の出力は実質上期待できない。

 屋上に太陽電池パネルを設置するにあたっては、環境意識、すなわち製造・運用・廃棄に当たっての所要エネルギーの回収期間、排出CO2の回収期間の考慮より、投資がどれだけの期間で回収できるかの経済的な観点に重きをおいて決するのが一般である。事業者の多くも当然そうである。もっともCO2回収期間については、来たるべき脱炭素社会では、製造等に如何なるプロセスを採用しようとCO2排出に考慮は不要であるから意味がなくなる。というより、エネルギーをどれだけ使って何をしようと全体として実質的にCO2排出のない仕組みの完成した社会が脱炭素社会である。

 今、脱炭素はビジネスチャンスと多くの人が公言しており、ビジネスにならなければ、またそう誰かがそうなるよう誂えてくれなければ、手を出さないということのようにもみえる。表には余り出ないが、脱炭素も所詮覇権闘争や利潤獲得の一手段にすぎない、という単純直接な意見も多い。

 ただ、低炭素はともかく脱炭素社会は、そのようなレベルの話ではなく、いつかはくる筈だった我々の文明の大きな変容の契機と素直に捉えるべきではないかというのが、本小著の趣旨の一つである。

本文は「雑説 技術者の脱炭素社会(改訂増補版)」(2023年11月、梓書院)の「自解優游」の一部です。

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