13.化石燃料の運命

   「雑説 技術者の脱炭素社会」の自解(13/21)

 

人類に多大の恩沢与へし化石燃料、今 ( ただ ) ならざる 貶斥 ( へんせき ) 受けし感もつは、 ( あに ) われのみならんや、例するに今より太陽光発電、電気自動車に多く依るとして、その原料の採掘精製より製造廃棄に至るまで、石油用ゐるなくして能ふ時、いつ来たるや。化石燃料、 ( いやしく ) 用捨安易に決し、 弊履 ( へいり ) ( さなが ) ら棄つべきものならず、また能はず、この先も心砕きて相応なる対処、宜しくなすべきものならんや。

 2023年の現在、どこの国も「脱炭素」と言いながら、東欧での予期せざる戦争もあって、厄介者であった筈の化石燃料確保への執念はすさまじいようである。特に脱炭素を主導している国々が、いろいろな理由のもとに争奪戦を演じている。もちろん将来、脱炭素社会成立が近まれば、希少金属や核燃料用鉱物のための争いはあるかも知れないが、化石燃料の争奪戦などという言語道断はなくなるはずであろう。

 また石炭をやめて天然ガスへという世界的な流れがある。一昔前なら、直ちに「それでは天然ガスの寿命を縮めてしまう」という議論になったはずであるが、そのような動きは微塵もない。もとより、脱炭素を目指すのであれば、化石燃料の枯渇を心配するなど論理矛盾である。ただ尽きるのが早い貴重な石油、或いは天然ガスの使用を控えよではなく、石油減耗のあとかなり長期にわたって頼る予定だった賦存量が多く余裕ある石炭から抑制というのは、 ( ) ( へん ) に鈍な旧弊人からすると、何か不思議なことになった感がある。化石燃料は貴重なものであるから、少しでも多く未来の子孫に残してやるとの、産業革命で石炭を本格的に使いはじめてからの大前提が、子孫が使うか否かはわからないが多量に地中に残しおくということに変わったわけである。ただ長い目で見れば、少々は偏移するかも知れないが、石油、或いは化石燃料使用量のピークが、ここ数百年の物質文明のピークであったと回顧される日がくる可能性はないだろうか。すなわち我々前後世代が生きてきた、また生きていくここ数世紀である。

 石油や石炭の利用を完全にやめて、現在と同様の文化的生活ができれば、特に資源小国の日本にとって好ましいことは以前から明らかなことである。ただもう今の若い人には化石燃料のありがたさ、大切さよりその弊害の方がより強く頭にしみついているのであろう。温暖化抑止のために、人類が自発的に化石燃料を排することができるか、はからずもそれが近々30年で明らかになる。いささかのはばかり無きにしもあらずではあるが、傍観するにこれほど興味ある大活劇はない。

本文は「雑説 技術者の脱炭素社会(改訂増補版)」(2023年11月、梓書院)の「自解優游」の一部です。

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