15.省エネ努力と脱炭素社会

   「雑説 技術者の脱炭素社会」の自解(15/21)

ヒトの歴史の大半、飢餓との闘ひにして、利用するエネルギー、もとより僅々の自然エネルギーに過ぎざりき。・・「石油文明」、「化石燃料文明」とも称さる今日、これほどに過剰なるエネルギー消費は、何がためなるや、而して次なる段階またその先、如何なるものエネルギー供給の太宗となりて、如何なる文明育むあらんか、或いは、幸ひにそれ持続安定の状に達して、文明に 態々 ( わざわざ ) その名冠するの要なきに至らんか、古今世変にくらくして凡慮及ぶところならず

 脱炭素が言われて、いろいろな民間の活動が報道されるようになった。ただ、CO2に対してはかなり誇大評価と思われる事例も多い。というより、LCA(ライフサイクルアセスメント)的見積もりは勿論、定量的な表現さえ全くないものもある。取材者がつけたのだろう、そういう記事に限って「地球を救う」などの文言が表題に付されている。

 また自分でできる小さなことから始めたいという、個人の投書がときどき新聞紙上にみられる。これらの多くは、真率な意図の真率な行動である。点滴が岩を穿つのは物理的にも了解できることであり、人力エネルギーに着目すれば愚公山を動かすことも勿論可能である。ただ、現在訴求されている脱炭素は全く性格の異なる問題であり、小さな節約をしながら、今の便利な生活は手放さず、というより、将来の脱炭素社会ではさらに快適な生活を望むというのは、少々虫のいい話と思えないでもない。点滴ではなく、大胆に岩を砕く、或いは取り除く荒作業が早急に必要とされているのである。

 とはいえ、首尾よく脱炭素社会が成就しても、またその途上にあっても省エネの意識、地道な節約の励行は今に倍して望ましく有益であり、投書にあるような意欲は大切・貴重に思うべきであることは言うまでもない。というよりこれこそ昔から、エネルギー利用の本質的態度であるべきだったのである。 

 他の動物は生存のために必要な量を摂食するだけであるが、人類は、石器、火を用いた技術をもったことで、広範な欲望を持つことになった。そして便利なもの、役に立つものは容赦なく使いつくしてきた。エネルギーで言えば、石炭にとって代わられる前の森林が典型的にそうである。古来、周囲の森を伐採しつくして、文明の滅亡にまで至った国や地域は多い。

 今、人類は世界平均で1人あたり石油換算、年間約2トン(判りやすいこの換算法も脱炭素社会では一般的ではなくなるだろう)のエネルギーを使っている。その大半は化石燃料である。半導体の集積回路の密度は15年間で1000倍になっている。人類が使うエネルギーも、技術革新によって1000分の1にできればいいが、人間がマッチ箱の家に住めるような大きさになれればともかく、いろいろな事情でそうはいかない。それにしても、化石燃料の埋蔵量については例のごとく諸説あるものの、その寿命が1,2年でもまた数万年でもなく、あたかも今の人類を試すが如き数百年の単位であるのは偶然であろうか。

本文は「雑説 技術者の脱炭素社会(改訂増補版)」(2023年11月、梓書院)の「自解優游」の一部です。

 *アマゾン https://onl.bz/pDuFDYn