17.エネルギー利用の法則と脱炭素

   「雑説 技術者の脱炭素社会」の自解(17/21)

・これ元よりあるべきに非ざることと雖も、俄かに杞憂と断ずるに 躊躇 ( ためら ) ふものあり。この域、永らく動かし主導し来たるは、熱力学、物理化学の原理原則なりしが、今、何やら違ふものに替はりたるの感あればなり。

 本自解の最初のところでも引いた文である。ここで「何やら違うもの」、とは、要するに電気、熱、化学エネルギー等についての旧来の利用原則とはやや異なる志向性を促しているものであり、読者諸氏、いろいろなものを想定されるかと思うが、著者の想定は次のようなものである。

 まずは政治的・社会的な観点に基づいた、国や企業からの技術者集団への要請、指導等もろもろの外力である。ただこれはこの分野であれば、状況により強弱こそあれ、当然のことというべきでものである。一方、技術的部分についていえば、現状では無理もないところ、また関係者懸命腐心のところなのであろうが、脱炭素の為であれば、何をやってもいい、いややらないといけない、それが今までのエネルギー利用の原則、ルールとは多少異なっても、という志向性である。脱炭素とは、基本的には化石燃料の利用をやめようということであって、必ずしも使うエネルギー量を減じることと同義ではない。そしてその背後には、明言するか否かは別にして、近い将来には再生可能エネルギーが無限かつ低廉に、更には希少資源の濫費、環境への負荷など様々な課題を克服して供給できるとの想定があるように思える。

 勿論、現実的には昔からエネルギーの効率や、プロセスの優劣の評価だけでことが進むわけではなかった。エネルギー損失はあっても、現実に有用なシステムであれば、広く世界に実装されることになる。例えば、エネルギーのロスはあっても、気体ではなく化学合成で或る液体にした方が扱いやすく、また新規の輸送システムをつくるより既存のシステムによる方が好ましい場合も当然ある。コスト、利便性、安全性などあらゆる要素を考慮して、個別の案件ごとに相応しいものが選ばれることは当然である。ただ今回の脱炭素のためにそれが極端にすぎ、また世界的に一般化されかつ長期におよぶと、より普遍的な命題であり、今後とも最も肉太のフォントで書かれるべき標語「持続可能社会」と乖離するのではないか、といういささかの危惧を覚えるところである。

本文は「雑説 技術者の脱炭素社会(改訂増補版)」(2023年11月、梓書院)の「自解優游」の一部です。

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