19.脱炭素社会への覚悟

   「雑説 技術者の脱炭素社会」の自解(19/21)

ある人云ふ、それ、表には時に不得要領に見ゆるも、実は周到なる ( おもんばか ) りの策ならんと。若き日には然りと解せるも、われ今これ判ずる能はず。而して世変にうとき一般衆庶、深くは思はず、つひには楽観鷹揚の行ひをなす。けだし今の世の人すべて、目先刹那の為す易きを為すのみにして、真の難題は次なる世代へ先送りせんとの黙契あるが如し

 30年後の化石燃料を使わない生活がどのようなものになるか、例えば買い物にスーパーに出かけて、棚に並べてある雑貨や食料が、どうやって作られ、運ばれてくるようになるか等々、考える人はあいにく多くはないようである。少し退いて案ずれば、逆に脱炭素・脱化石燃料と毎日のように目にし耳に聞きながら、皆がなぜその発想にならないのか不思議ではあるが、政治家や官僚が先導し、企業、科学者・技術者が考えてやってくれるとの漠たる想定であろう。

 今までメディアなどが並べる新技術の「あとはコストの問題」で終わる記事のすべてが実際にできていれば、人間はとうの昔にやることもなくなり、天国・極楽のような世界で日がな神や仏と対話していたかも知れない。ただ具体的に脱炭素に限ってみれば、最近とみに多くなった個別技術に関するトピックス風記事の楽観的部分を寄せ集めても、低炭素社会はともかく、自然環境まで含めて調和のとれた「脱炭素社会」ができるとはなかなか思えない。また報じられる技術も、現実的に可能な技術なのか、夢のような技術なのか、一般の人にはなかなか区別がつかないであろう。いうまでもなく技術は万能ではないし、当然ながら、そうしたい、そうすべきという目標と、実際にどうなるかの予測は全く別であり、特に脱炭素のような大課題についてはいろいろな見解がある。実際、化石燃料は2050年になっても、今とほとんど変わらず使われるという予測もある。

 そして今、脱炭素推進に積極的に見える当の世界の指導者のみならず一般大衆も、化石燃料を排すれば、その代わりを必ず求めるというのが総意であり、またできることはやるが、あとに残されるはずの難題は後の世代がという、現在の世代人としてすべての人の暗黙の契約があるようにさえ見える。

 表掲文は「ある人」の酔いに任せての言との設定であるが、実態はどうであろうか? はじめにかいたように主人は、「案じ煩ふに過ぎること、今、甲斐なし。高きより俯瞰すれば、往くべきへ往き、収まるべきに収まる、而してそこ、理より出づるところのものより遠くはあらざらん」と応えてその場を収めるのである。

本文は「雑説 技術者の脱炭素社会(改訂増補版)」(2023年11月、梓書院)の「自解優游」の一部です。

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