5.燃料電池と電気自動車

   「雑説 技術者の脱炭素社会」の自解(5/21)

燃料電池報道華やかなりし頃、これできれば、エネルギー問題すべて解決とでも云ひたきもの少なからず。はては、燃料電池、究極のエネルギーとせしさえありき。燃料電池はエネルギーにあらず。飢ゑたる児へ与ふるに食物ならずして、以て煮炊き道具とするが喩へ、相応ずべし。

 今、電気自動車(蓄電池型自動車)の進展が急速で、一般の関心も極めて高くその利点や課題の議論も盛んである。電気自動車の普及で、まずはあらかた脱炭素の問題もかたづくかのような感さえある。或る年代以上の技術者で、既視感を覚える人は少なくないだろう。

 燃料電池が、エネルギーの問題をすべて解決するかのごとく喧伝されたのは20年近く前のことである。当時は自動車だけでなく、発電用、熱電併給(コジェネ)用なども利用先として想定されていたし、それは現在でもそうである。高効率、低騒音が特徴であるが、もとの燃料は殆どが化石燃料であった。今回の電気自動車の方が業界も力が入って実用化の進展も特段にはやいことは疑いもなく、また時移れば事かわって意味合いも異なるから安易な類推は慎まなければならないが、どちらも一般大衆に判りやすく関心も高いからこそメデイアなどで大々的に打ち出されるのであろう。

 勿論、燃料電池、蓄電池とも重要ではあるが、エネルギー利用の流れからすれば単なる変換機器にすぎない。表掲最後の文は飢えた児にエネルギーである食物でなく、その処理道具を与えるという意である。それを搭載した製品・プラントのコストや利便性などは別にして、CO2排出量という点に限定していえば、もとになるエネルギーをどうするかが第一の問題であって、それが再生可能エネルギーなのか、原子力なのか、或いは化石燃料なのかということに大半は依存している。少なくともエネルギー関係の技術者は、生産、利用、廃棄までの利用システムの全体を考えるから、電気自動車、燃料電池、或いは水素を、直截に脱炭素や化石燃料節減に結びつけることなどあり得ないことである。

 「エネルギー」、「環境」に関する、一般人の知識は重要である。特にこれから、温暖化問題・脱炭素に関連し国際的な軋轢が高まっていけば、その国の興隆、衰亡は政府や産官学の関係者のみならず、国民全体の知識・識見のレベルに影響されることにもなる。諸メディアの役割は大きく、重いといわねばならない。

本文は「雑説 技術者の脱炭素社会(改訂増補版)」(2023年11月、梓書院)の「自解優游」の一部です。

 *アマゾン https://onl.bz/pDuFDYn