第12講 持続可能社会とエネルギー・環境

 本講は全体のまとめとしたものです。具体例の素材が、当時(2000年代初期)の時代を感じさせたり、或いは奇異な感じを与えるかも知れません。また気負いがすぎてやや「僭越」気味の技術随想風の部分もありますが、ただ、個別の内容やそのニュアンスは変わっても、全体の趣旨は今もそのままで該当する所が多いように思います。

 「持続可能社会」の用語が広く認識されてから、既にかなりの時間が経過していますが、これが単なる麗しい標語で終わることなく、趣旨に沿った具体的施策が提案されて、次世代また先々の世代がその成果を享受できるようになるか否かは、今後にかかっている状況です(2020年6月)。

(「昨日今日いつかくる明日―読み切り「エネルギー・環境」―」(2008年刊)より抜粋)

かけがえのない地球生態系の転機  

 人間を含め、あらゆる生命体を構成する元素は、もともと宇宙に散在する恒星の内部ないし超新星の爆発によってつくられたものであり、我々は宇宙の歴史とともにあるといえる。そして我々の地球は現在太陽系で生命の存在が確認されている唯一の惑星であり、また太陽系以外からも現在までのところ、生物が存在している情報は送られてきていない。我々生命体はこの地球で生をうけ、40億年の長きにわたって進化をとげてきた。そして遂に生命・進化の仕組みについても知見を有する生物種を生み出した。その種があげた最近の重要な成果の一つは生命の遺伝情報の伝達方式の発見であり、自らを含むゲノムの解読である。

 しかし今、かけがえのない地球の生態系は、その一つの種にすぎない生物の所業によって危機に瀕しつつある。人口の増加、食料需要の増加、そして何より石油を初めとするエネルギー消費の増加が、地球温暖化、酸性雨、オゾン層破壊などの地球的規模の災厄を招来した。これは、科学技術に基盤をもつ産業活動の発展拡大のみならず、永年積み重ね、且つここ100年の間に急変した我々のライフスタイルにも起因するもので、多くの人はいろいろな分野でパラダイムを変えない限りこのままでは人類は衰退するのではとの危機感を持ち、同時にまた営々として築き上げてきた我々の文明が今重要な転換期にあることを感じているのである。(中略)

エネルギー・環境問題と人類の行方   

 二酸化炭素(CO)による温暖化を初め、エネルギー・環境問題は理工系の他のテーマと異なり、容易に人類の去就やその行方といった大問題と結びつき、又同時に安直に結びつけられることも多い。考えてみれば、理工学を業とする人々の大多数が、二酸化炭素問題などを契機に人類や地球の将来といったスケールで思考した時代はいまだかってない。一般には大国の指導的政治家か大哲学者の占有物と思われていた「人類の未来」などという用語の多用にも、気恥ずかしさは感じなくなってきた。逆に、自然科学や工学の知識と訓練がそれらを考えるために必須になってきたともいえる。という次第であるから、以降の僭越さはご寛恕願いたい。 

 確かに、科学技術の進歩で、世界観・人生観を形成するためにも不可欠な理系の知識が増えてきた。宇宙物理学や、分子生物学などはその代表格であろう。例えば、 古来、古来、太陽や夜空の星たちは人々に驚嘆と悠久を感じさせるものであった。二千年の昔、三国志の諸葛亮孔明は自らの近い死を悟り、秋風吹く五丈原を輿にのり陣屋を巡見した後、空を見上げていう「悠々蒼天 曷其有極(悠々たる蒼天よいつかそれ極まり有らんや)」。今、我々が目を凝らす悠々たる蒼穹の先では、赤方偏移して観測される星々が猛烈な勢いで遠ざかり、パルサーが1秒間に何万回か回転している。また全てを飲み込む恐ろしげなブラックホールが、と考えると目眩めく想いがする。病い篤き丞相の想いと重なる部分は多いだろうか

 また、地球のすべての生物の遺伝情報伝達形式は皆同じである。もし先哲がいうように、人間であることが一つの無益な受難なら、数分毎に減数分裂を繰り返すバクテリアであることもまた同じく受難ではないか、という所まで既に我々は来ているともいえるし、観点を変えれば、「ヒトゲノムの塩基配列こそが人類の真実」、残余は瑣末事、ということにもなる。勿論、このような感想はオーバーシュートに過ぎるが、ただ、どれだけ行き過ぎることができるかも、その影響度を測るバロメータのひとつとすれば、前世紀の分子生物学が人類に与えた影響の大きさが知れよう。数世代も経れば、夜空の星々とともに驚嘆すべきものは、心のうちの道徳律から「わが体の内なるDNA」に変化してしまうのだろうか。

ヒトの特殊性とエネルギー使用

 ヒトは地球上の一生物種としてはすでに自然な生物の本質から逸脱し特異な存在になってしまい、あとはその最大の特徴である発達した知能を使って生き延びるなり、静かに歴史から去っていくなり、独自の道を進む以外にないとは、つとに各方面で指摘されているところである。この「裸のサル」の繁殖行動その他については、興味深く読める動物行動学などの一般書で承知の向きも多いだろうから、ここでは本題であるエネルギー・環境に関する項目に限定しよう。

 まず、人口、即ち個体数であるが、現在の60億人の人類の総重量約3億トン、水分を除いた乾物重量一億トンは、4500種存在する哺乳類の全重量の一割強を占めるまでになっている。ちなみに全生命体でいえば、哺乳類は1%で、9%が植物、残り90%の殆どは微生物である。個体数の増加は、農業と牧畜の発明によって食料確保に成功した約1万年前、そして化石燃料の使用による近代文明化によって漸増から急激な増加に転じた18世紀がその重要な転機に当たるであろう。一万年前は400万人程度であったと考えられているが、現在では60億人に達し、1時間に1万人の割合で増加している。捕食段階と個体数は反比例する筈の生態ピラミッドの通例に反する、異常な事態である。35億年の歴史ある地球の生態系からすれば、とんでもない大食らいの食客が、突然に出現したということである。ただ自らは主人と思っている節もあり、ことのほか厄介な事態にもみえる。

 エネルギーの面で言えば、世界のエネルギー消費量は石油換算で年間約九〇億トンだから、1人当りにすると約1.5トンとなる。一方食糧としての熱供給量は、1人1年当たり石油換算で約0.1トンに過ぎない。この合計年間1.6トンは、人類が外部に仕事をしないでじっとしている場合のエネルギー、即ち標準代謝量の20倍近い。人類は生存に必須なエネルギーの20倍ものエネルギーを消費しており、その大半は石油や石炭などの一次エネルギーであり、同時に地球温暖化の原因となる二酸化炭素を排出する。日本人についていえば、世界平均の3倍の一次エネルギーを消費している分を勘案して約60倍になり、その使用量に相当する代謝量の動物はといえば、よく引かれるように体重数トンの象ということになってしまう。如何に現代人が過大なエネルギーを消費しているかという事であるが、もっともエネルギー消費については日頃から忸怩たる感をもっている我々にとってみれば、逆に冷暖房機など使う訳でもない象が、生命活動の為だけにそれほどのエネルギーを消費するとは、身体が大きくなるのも大変なこととの想いの方が強いかもしれない。

 遠い将来、ヒトが「葉緑体」の遺伝子を人体細胞に組み込み、現在の従属栄養体から自らの光合成で生活可能な植物のような独立栄養体になれば、永久に飢餓に悩むことはなくなる。しかし、この将来の緑色の人類も、文化的生活を営みかつ多食・美食の欲望を満たすために、自らの光合成の数十倍の外部エネルギーの獲得が必要であろう。このエネルギー源は太陽電池だろうか、それとも核融合だろうか、或いは人口が急減し、細々とながらもまだ石油に頼れる状態だろうか、エネルギーや環境に関わってきた身としては興味をもたざるを得ない所ではあるが、やはり、現実的なここ100年ほどの話に限ろう。

 問題は、畢竟するところ、人類が現在、生物として必要な基礎代謝及び活動のために不可欠な1人1日2000〜2500?カロリーに数倍する量のエネルギーを使用している、その過剰分のエネルギーには、何の意味があるのか。また、化石燃料とは、我々にとってどういう存在であるのか、ということになる。

 もともと、エネルギーの使用はそれ自体が目的ではなく、自動車や航空機で希望の場所に移動したり、電気を使って洗濯をしたり、空調でより快適に過ごしたり、或いは日常生活のための化学製品などを製造するための手段である。ただ、その目的との関係が極めて広範かつ深いから、このような大きく言えば人類の所業、文明の行方といった形而上の問題と容易につながってしまう。もし、エネルギーの使用自体が目的であれば、課題としては直截で、解決策の優劣も判じ易い筈である。(中略)

 べき乗の歓喜と恐怖  

 現在、科学技術はべき乗の勢いで進み、人類は、特に先進諸国は、その恩恵を歓喜しながら存分に享受しているが、一方、べき乗の恐ろしさは指摘するまでもない。「成長の限界」ではペルシャの賢明な廷臣と王の伝説が引かれているが、日本でも殆ど同様の話がある。実在の人物ではないが秀吉の御伽衆の一人で、頓智話で知られる曽呂利新左衛門は、あるとき、何らかの褒美に秀吉から望むものをと言われ、初日は一粒、その次は2粒、翌日は4粒、とつまり2のn乗の米粒を所望した(ペルシャの話ではチェス盤に米粒を置いていくことになっている)。20日からは目に見える石高になり次の日にはその2倍、さしもの秀吉も所有の倉が空になることに気付き、慌てて謝る破目になったという小噺である。ちなみに米一粒は約0.02グラムだから、20日目は22キログラム、26日目は約1トンに相当する。少ない時は全く気付かないが、或るべき乗の所から現実的な量で実感され、じっとしていればすぐに日本の石高に達する。 かくの如くべき乗の効果は恐ろしいのである。かのアダムスミスの国富論も、食料の増加の線形性と、人口のべき乗性の難問が議論されていることは承知の通りであるし、また細胞分裂で30回分裂すれば、2の30乗、つまり30億個の人間の細胞が完成するとも良く使われる比喩である。そして前述したように、石炭の可採年数も、消費が年五%で伸びていくだけで新たな資源が見つからないとすると、250年が一気に70年になってしまう。

  べき乗で続く高度成長、化石燃料の利用を続ければいずれは壁にぶつかり限界を知る事になる。判りきった事であるが、人類文明もまた資源・環境の問題を契機に地球生態圏の有限性を痛切な思いで知りつつある。思えば、つい200年前の若々しい溌剌英気に満ち、目の前の地平線水平線は何処までも伸びていた時代、また、戦争や疫病、貧困に苦しみ、数年先も念頭にのぼらない時代から意外に早く到達してしまって当惑しているのである。

 勿論今後の技術開発に期待するところは大きい。しかし、過大な思い入れも禁物である。書店に並んだ書籍の背表紙には、いろいろな新技術・新製品、超技術が、また風や光や、或いはゴミや、竹・大麻・雑草・海藻などが、「愛」や「お金」といった一般解と並んで日本を世界を、21世紀をそして将来の地球を救ってくれる事にはなっている。頼もしく思う人もいれば、どれも空元気の口笛以上ではないと感じる人もいようが、これらの提案が多いこと自体が、状況の困難さを示しているともいえる。

 いずれせよ、現時点での化石燃料の大量消費を外部から客観的にみれば、人類が意識して太く短いレールの上を韋駄天走りしているものと映るだろう。その第一原因は人類が化石燃料を知った事、特に石油を手にした事、即ちエドウイン・ドレークが掘削と同時に鉄管を打ち込んでいく手法を考案し、米国・ペンシルバニア州の地下2mに達した地点から石油を勢い良く噴出させた1859年8月27日を起点とするのだろうか。膨大な知識があり、深遠な理論とともに、エネルギーを繰り、300年前には想像も出来なかった強力な動力機械を駆使して、荒撫の未開地を切り拓き、豊かな実りと多彩な工業製品を得る知恵をもつに至った我々の文明はそれにも拘らず、このような判りきった想定事に対処できずに停滞し、ひいては衰退の道に踏み入ってしまうのだろうか?  曲がりなりにも前世紀に生命の仕組みや秘密に近づいた人類ではあるが、一歩間違えば、早い時期に、違う種が「生命とは何か」を考えるときの素材そのものになってしまうやも知れない。

 このような長い時間軸での未来話めいた想いは、個人のプライベートな深刻な悩みと違って、少しく被虐的な快感を喚起する。従って、ほろ酔い加減で考え始めると、とどまる事がないのだが、しかし、また覚醒して考えを巡らせても、このいささか屈折した想いの克服は容易ではない。過渡期はともかく、結局は、ほどほどの再生可能エネルギーと、ほどほどの原子力を利用しながら、適正な個体数のヒトが、適度な利便性を享受して、ある目的に向かって精進するようになるだけの話で、格別の深刻さは杞憂なのかも知れないが、ここ数年あるいは十数年の経済の浮沈や国際関係、さては自らの日常生活の哀楽などを思い遣る部位とは違う、頭脳の或る場所には、何やら不安な人類の将来図が映っていることを自覚している人も多いはずである。

「変わる」ということ     

 現在、人類の諸活動のエネルギーに対する依存度は極めて高い。長期的に考えれば、人口がどう推移するにせよ、世界のエネルギー消費量の総量はこのまま増加の一途を辿ることはなく、いずれはピークを打つだろう。そして今の社会経済構造、人々の生活様式・感覚・意識、これらに変化がなければ、即ち、その時が人類の活動の一つの突出したピークになることは疑いがないように思われる。

 さて、化石燃料使用量削減の最も根本的な方法の一つは、最終的なエネルギー利用者としての私たちが節約することであり、勿論、これは二酸化炭素による地球温暖化対策にもなる。しかし、省エネルギー技術に画期的なブレークスルーがあったとしても、いつのまにか、その分を相殺し更に上回って使ってしまうのが、今迄の日本であり世界であり、人類であった。エネルギー・環境問題の解決には本来、経済の持続的膨張、そのための大量生産・大量消費の構造を転換することが最も確実な対策であって、例えば燃料電池の開発は技術革新の一こまに過ぎない。それより、国民の自発的な節約、つまりライフスタイルの変化が永続する方が、隔絶して革命的であろう。節約の意識の重要性は識者の常に指摘するところだが、また決して、一般人の継続した行動規範とはなり得なかったものでもある。

 その結果、いろいろな技術開発の成果としての原単位の改善が、全体的な省エネルギーや環境負荷低減に直結しない。自動車排気ガス中の窒素酸化物(NOx)の排出が恰好の例であるが、日本の自動車のNOx排出原単位は低下している。即ち単位走行距離当りのNOx発生量は燃焼技術と触媒のおかげで、格段に下がった。しかし自動車の所有台数が増えて、排出するNOXの総量は減っていない。自動車メーカーは、公害対策、環境対策に非常に熱心であるが、それ以上に売り上げと利益向上の熱情の方を強くもたざるを得ず、また国民も利便性を求めて購入し続けたから当然の結果である。結局は、変わらない量の汚染物質を出すために低公害技術を、そしてエネルギーをより多く使うために省エネルギー技術を開発していたのである。

 そして今や、エネルギー使用量は文明の高さの指標でもあり、個々人のさまざまな価値観のもとにもなってしまっている。政策的に省エネルギーを誘導したり、また個人で節約を心がけたりすることは当然必要ではあるが、一時的な急場しのぎで収まるようなものでもなく、そして、このような社会構造は、個々人が明確に認識しても、容易には変えがたいものである。判っておりながら、その構造故に内部から崩壊していくことも多い。(中略)

 変わるのは容易ではない。「生き残るのは最も強いものでも大きいものでもない、変化しうるものである」。一時期、変動期の企業で、経営指針・行動指針として多用された、ダーウィンのこの標語は生物として変わることの本質的な重要性を示したものである。改めて「種の起源」を読み返してこの言葉が見当たらず、途方にくれたビジネスマンや生物関係者も多いと思うが、実はこれはダーウィン自身の言葉ではなく後の創作のようであり、企業人対象の警句としては秀抜の出来だが、生物学的には誤解を招くともいわれている。適当な例か否か判らないが、あのビートルズも初期、中期、後期と演奏形態、歌詞内容が変化していった。いつまでも初期のままでは単なる1960年代ポップスの1人気グループで終わった筈である。勿論それでも、彼らの活動が、今や高校倫理の教科書で「青年文化が既成の文化に影響を及ぼし、社会をかえた」例に引かれるようになるとは当時は誰も思い及ばなかったことではある。

 即ち、「持続可能」と「変わる、変わっていく」とは一応同義といえるという事である。しかし変わろうと思って変われれば苦労はない。生物の進化も基本的には自ら希望したというより深刻かつ長期的な外部の強制力による変化なのであろう。自ら変わるには多大の精力の消費が必要であって、組織でも、変えよう、変えたいといっている本人が一番変わっていないなどとは良くある事である。下手に変われば、個人のダイエットでさえ、リバウンドがあり、劇痩せ、心身症と正常なルートから逸脱してしまう。同様に、さまざまな「変わりよう」のうち、エネルギーについては、最も単純で効果も確実な我々の節約もそれだけで完結するものではない。一歩誤れば、経済の縮小、不況、失業者の増大、ひいては貧困、飢餓、戦争とうち続く悲惨を覚悟しないといけない。特に現在経済大国である日本は、経済の失速は世界における地位の低下に直結するから、政財官学のエスタブリッシュメント層はそのような辛い道を自発的には選択しないだろう。現在でさえ経済的理由での自殺者が日本で毎年1万人という状況であるから、不況につながるようなエネルギー消費量低減に簡単に移行することもできない。

 1973年、78年の二度の石油ショックの時、日本のエネルギー消費は減少した。ネオンサインが消え、不必要な冷暖房温度は適切に管理され、省エネルギーは国民の健康増進にも寄与した筈である。そして経済成長は続いた。その後は石油価格が安定し、同時に節約の精神は失われ、忘れ去られて、エネルギー消費量は「順調に」増え続けて今に至っている。

 勿論、慎重にいろいろな限定がつけられているが「変化しないものは絶滅にいたると考えられる」という簡潔な言明は確かに「種の起源」にある。 (後略)