13.アンモニ合成と温暖化問題の事,雑説・技術者の脱炭素社会(13/15)

ある人の云ふ、

 今、水素利用媒体の一つと想定さるアンモニアの名前、時にきくことあり。われ化学の徒なれば、ここに思ふところ述べん。

 19世紀末の1898年(わが明治31年)、クルックス卿、英国アカデミー協会会長就任の演説をなし、来るべき食料危機の克服、喫緊の課題なるを訴へたり。すなはち、「英国はじめ全ての文明国家、人口増と食糧難にて、生死の危機に瀕してあり。されどこの暗黒の中にもなほ一条の光あり、それ、空気中窒素の固定にして、窒素より製せらるアンモニアは肥料のもととなり、硝酸は火薬の原料ともなる。これ、実に化学者の才能に待つべき偉大なる発明の一つならん」と。

 この演説より15年を越えずして、独人ハーバー、ボッシュらによるアンモニア合成法の開発工業化せられ、当面の食料危機脱するを得たり。現在に至るも世界に飢餓問題はあれど、ハーバー・ボッシュ法アンモニア合成、人類に大きなる福音となりしこと、疑ひなし。彼らいかなる奮闘苦労をなせしや、またこれに関与をなし、科学界特別の賞の栄にも浴せし幾人かの科学者・技術者、時 ( あたか ) も起り来たりしナチスの台頭また世界大戦に際して如何に生きしや、今もなほ多く語られてあり。けだし様々なる意味にて20世紀科学技術象徴するに足るものならん。

 クルックス卿の危機感表明、科学技術者鼓舞の演説より120余年後の現在、相照らして想起さるは、温暖化、気候変動問題ならん。されどことの ( よう ) 大きに異なれることあり。例へば、クルックス卿言及せしは、西欧先進国の危機にすぎずして、温暖化は世界の問題なり。また、危機の内容、すなはち当時の食糧危機と現在の温暖化に対する識者、更には世間一般の認識、異論の存在などの差異につきては、議論あるところならんが、技術につきては次の如く説くこと可ならんや。

 アンモニア合成の目的、端的にして、一つの反応式、すなはち、N2+3H2→2NH3なる化学反応の温度、圧力、触媒などの操作条件確定し、工業規模にて実現するにあり。クルックス卿、その主役を化学者と特定さへしたりき。加へて、これ枢要と解すべきは、時まさしく、科学技術の成長期なりしことなり。具体的には熱力学、物理化学、触媒化学などの基本理論、急速に整ひ、関連の研究促し、工業化 ( たす ) けるに大いに ( あずか ) りしところあり。

 対するに、今回の温暖化、単一の技術にて対処できるものには到底あらず。個々の技術成るも、全体良しとなせるやの疑ひさえあり。単純ならねば、各技術間の利得・弊害の較量欠くべからず、また独り技術の問題にとどまらずして、時に優れて政治的なる判断をも要す。加ふるに、今、科学技術既に成熟期たり。科学技術者、多くは真面目にて、日を倍にし 徹宵 ( てっしょう ) 幾度かにて 成就 ( じょうじゅ ) すと判つてゐるが如きこと、既に概ね解き明かされてあり。

 これら案ずるにつけ、温暖化対策の技術、なかなかに難ならんと今更思ふところなり。

ある人の続けて云ふ、

 近来、温暖化対策、脱炭素社会の水素利用システムに係り、先人苦労のプロセスの逆反応の利用につき報ぜらることあり、少しく感慨もてり。

 一つは、アンモニアなり。アンモニア合成は、先の百有余年前のハーバー・ボッシュの方法、今も行なはれてあり。 ( しか ) してアンモニア、頃年は水素のエネルギー媒体の一つとして注目さる。すなはち、水電解で得られし水素と窒素よりアンモニアを合成し、それ液体の形にて輸送、利用地にて分解、水素取り出して利用するが、一つの案なり。ハーバー・ボッシュ法の、今、かかる形で検討さるるも興深けれど、利用地にてはハーバー、ボッシュ 辛苦 ( しんく ) 艱難 ( かんなん ) のアンモニアは、それより格段容易なる反応条件にて元の水素と窒素に戻さる。

 今一つの例、メタンなり。天然ガス(主成分はメタン)を改質し、以て水素つくりCO2を除去す、これまた、触媒、反応管材料含め、多年の苦心ここに到れるといふべき技術開発の成果にして、世界に多くのプラント稼働せる代表的化学プロセス、アンモニア合成前段階の装置にてもあり。これ逆に、水素より(CO2加へ)メタンつくり、天然ガスと同様に利用せんとの試み、独逸でかなり以前よりなされしものの、 ( ばん ) ( きん ) 脱炭素の有力手法としてまた大きくとり挙げられてあり。

 尤も考へみるに、石油・石炭或いはバイオマスは、植物精妙の光合成反応もとなる太陽と地球の苦労丹精の賜物なれど、これを燃やしてわづか二つの単純なる分子、すなはちもとのCO2とH2Oへ戻す、けだしこれ同じ ( たぐい ) ならん。

 ただ、 抑々 ( そもそも ) の元へ戻るに、 態々 ( わざわざ ) 電力使ひて水素つくる、これ昔よりアンモニア肥料など化成品製するは別にして、エネルギー利用がため大掛かりに用ゐられしことなし。而してこの水素、多くは熱エネルギーとして利用さる。大学にてわれら、電気エネルギーは原理的には一〇〇%力学的エネルギーへ変換できるに、熱エネルギーはさにあらず、すなはち、熱は電気より劣質のエネルギーにして、熱機関にカルノーの制限あり、燃料電池にもまた則ありと、教はり教ふ。もとより全体として成立てば、それで云ふなきも、また蓄電装置、開発途上なる充分承知するも、更には、事情や地域に依りては著効の手段となるあらん思ふも、聊か奇妙の感慨拭へず。 嗚呼 ( ああ ) われ、かくなることおもて ( わざ ) にして久し、いつのまにやら旧弊人とはなれり、と。

孫樹先生、  ( かん ) ( )  として曰く、

 しかり、われら既に歴たる旧弊人*、旧紀元人なるべし、それ自覚あるうち ( ) く退くにしかじ。頃日、古き日誌見返すに、CO2対策会議のこと記すあり。その日、寒波厳しくして、大雪に阻まれ航空機飛ばず、因つて主要の担当者来らずの報ありて、会議延期とはなれり。南国この地も朔風強き寒気凛冽の午下なりき。部屋に集ひし四,五人、これ将来真に温暖化きたるや否や、笑みつ他愛なき交はして散ぜり。またそれに近きある日、大学恩師と談じる機ありて、燃焼排ガス中CO2の回収・貯留のことに及べり。今かくなること迄思議する要ありや、謦咳に接して例少なき恩師 吃驚 ( きっきょう ) のご様子、昭然今に牢記してあり。 烏兎 ( うと ) 怱々 ( ) ること既に三〇年余に及ぶ。旧弊人たるの感懐 ( むべ ) ならんや、と。 

旧弊人 古い習慣や考え方にとらわれている人。

莞爾 ほほえむさま。

牢記 かたく心にとめて記憶すること。 

烏兎怱々 月日のたつのが早いこと。太陽には烏、月には兎が住んでいるという中国伝説から。

ウィリアム・クルックス(英、1832−1919) スペクトル分析によるタリウム発見、真空天秤を利用したその分子量決定、また多くの歴史的実験に使われた部分真空放電管(クルックス管)の発明と陰極線の研究などで知られる化学者、物理学者。 

フリッツ・ハーバー(独、1868-―1934) 窒素と水素からのアンモニアの合成で知られるほか、ガラス電極の考案、酸素水素爆鳴気反応の研究など、電気化学、反応化学の分野に功績を残した。 

カール・ボッシュ(独、1874−1940) ハーバーの基礎研究をもとに、アンモニア合成装置の工業化に取り組み、触媒、耐高圧材料などの課題を克服して成功し、硫安肥料として広く普及させた。その後、メタノール合成、石炭のガス化技術など、高圧化学プロセスの発展に大きく寄与した。

「雑説 技術者の脱炭素社会(改訂増補版)」より

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(長崎総合科学大学 バイオマス研究室,特命教授 村上信明)