孫樹先生、現役教官なる時、学生に「燃焼」を講じ、その冒頭の略に曰く、
太古に
燧人
氏といふ王いでて、はじめて
燧
を
鑚
り*、人に火を用ゐし調理法教へたり、ただ文字なき代なれば、いつ何処でのことなるや定かならずと中国史書にあり。これもとより神話伝説の類にして、現代の考古学、人類学によらば、火の使用の証拠遡るに、50万年余前の北京原人に至るといふ。すなはち人類、50万年以上前のいつとは云はん或る日、火起したるを以てエネルギー利用の起源と目すべし。
而
してこの技術もとに、他の動物に優越して今日の繁栄築くに到れり。この時の燃料は枯葉、薪の類ならんが、今、人類燃やすは多く石炭、石油、天然ガスの化石燃料なり。一次エネルギー供給がうち化石燃料の割合、日本また世界でも10がうち7、8に及び、かつそれらの大半燃やされてあり。石油化学製品など「もの」として利用さる分も、最後には多くその運命にあり。電気をつくる、また自動車を動かす、隠されて常には見えざれど、化石燃料燃焼によりて、今のわれらの文明支へられてあること多言要せず。
然
りと雖も、この大いなる価値生む燃焼なる行為はまた大いなる環境の毀損をも生めり。今は周知の、温暖化因に擬せらるCO2、大気汚染、光化学スモッグ、酸性雨、ダイオキシン、これら皆燃焼の産物にて、負の面のみ窺へば、化石燃料の燃焼により、人類悪行はなはだしき地球環境の破壊者とはなりたり。これ、意図せずとも利用便なるエネルギー準備しくれたる化石燃料が責ではもとよりなし。
燃焼の本質は化学反応なれど、それ未だわれら充全に理解してはあらず。否、
完
き理解になほ遠きと認めずんばあらず。1778年、ラボアジェ*が見解あり、「燃焼は空気中酸素と燃焼性物質との化合にして、熱と光の発生伴へる現象なり」。今にしては当然至極のことなるも、これ長く激しき論争の結果にして、ルイ・パスツールの生物自然発生説否定と並び、近代科学の出発点と云はることあり。今、こと改めて問ふに、熱と物質、すなはちエネルギーとモノの区別分明ならざる人、なほ時にあるは故なしとせず。ラボアジェ、これより20年余の後、収税組合に係りて
縲絏
*の辱め受け、「人民に化学の要あらず」とされて仏革命の断頭台へ赴けり。
燃焼は燃料種類、燃焼条件によりて、多様複雑の態をなす。化学反応、燃料・空気の流動、拡散とが複合したる高温の現象なれば、得心の解明なかなかに難なり。化学反応に限りても、例へば、最も単純なる水素と酸素の反応、これ水素分子と酸素分子の直接に衝突して水を生ずるにあらず。よしや今、人類全ての科学的知識を失ふあれど、「原子」の概念さえ与ふれば、元の状態への復帰易かるべしと云はる。ここに委曲尽くす能はざれども、勉学進まば、復元さるもこの程度までのことならんと合点到るべし。
多くのこと格別なる科学の力にて成し遂げし今に至るも、太古より受け継ぎきたる「燃焼」といふ技術すらなほ窮め切るを得ず。判明せることの学術的深遠膨大に比するに、現実的単純素朴なる現象を説く能はず、これ何処の世界にもあることなり。かくして、日常接する
蝋燭
、ガスコンロの炎、いまだ神秘のままにして、人間の理論・数式を超えて自然はありとの感懐、また適当すべし。マイケル・ファラディーに著明の言あり、「みづから光り輝く蝋燭は、いかなる宝石より美なり」と。
さて化石燃料、いつの日かエネルギー供給の主たる地位を去らん。加へて今、脱炭素の声日毎に高し。されば近き将来、何をもってか燃焼の主対象とせん。時代を遡りて薪炭、バイオマスならんや、再生可能電力よりの電解水素またその誘導物ならんや、或いはラヴォアジェ云ふところの通常意味の燃焼、殆ど残らずして姿没し去らんや。現今の燃焼およびその利用の技術、時代の鍛錬厳しきを経て今に至りしものなり。人類かつて水素、アンモニアなどの炭素不含有の燃料を、広汎大規模に使ひしことなし。さればかくなる壮大の試み、今後の30年、半世紀の近き世に
成就
期せるや否や、如何なる事況の生ずるあらん、興味なしとせず。而してそれ到るまでは、化石燃料、能ふ限り高効率に利用なすべき肝要なること、言を俟たず。
然り、化石燃料利用機器の更なる高効率化は、最も確かなる低炭素手法の一つにして、また別してわが国得意とし、世界への貢献能ふところの技術なり。これ元はといえば、直接にはワット、ディーゼル*の熱機関改良・発明の時代より途切れるなく続く、動力コスト低減がためにして、同時に幸ひにも今日の化石燃料枯渇、併せてCO2低減対策にも繋がりしものなり。
因
みに書にあり、「ディーゼルは云ふ、このエンジンは高き熱効率、多様の液体燃料への適性故に、従前なる石炭・蒸気動力体系の
狭隘
*よりの解放能ふものなり。更には、植物油利用技術の発達如何に依りては、石油資源尽きたるのあとのエネルギー源、すなはち太陽エネルギーに結び付けること、これまた夢にあらざるなり」(1)と。ルドルフ・ディーゼルの1900年、パリ博覧会にて初めてエンジン公開するに、その燃料のピーナッツ油なりしこと、バイオ液体燃料の注目さるる120年後の今日、良く知られしことなり。
孫樹先生補追して曰く、
昔日、さる人より聞けることあり。NOx(窒素酸化物)問題起これる前には、煙生ぜずしてキラキラ輝ける高温の火炎、これ良しとされし。ただ、温度高ければNOxの発生多し。因つてNOx対策広く行はれしよりは、良き火炎、NOx、発煙双方に配慮せし薄暗きものとはなれり。ただわれ燃焼技術者なるを以て、キラキラ綺麗の炎への憧憬、なほ郷愁の如くしてありと。これ、人類50万年の火の利用よりすれば、ごく近き日のことなれど、時代の鍛錬語る
一齣
ならんや、と。
あらずもがなの注
燧を鑚る 木などをきり(鑚)もみして、火を起こすこと。
縲絏 罪人として捕えられること。
狭隘 狭苦しく窮屈なさま。
アントワーヌ・ラボアジェ(仏、1743−1794)質量不変の法則の確立、酸素の性質、燃焼・呼吸の本質の解明、水の組成の決定、化学物質命名法の提案など、化学の合理的体系の樹立に多大の寄与をなした。
マイケル・ファラディー(英、1791−1867) 二二才で王立研究所の助手となって以来、生涯にわたって同研究所でさまざまな研究に従事し、ベンゼンの発見、ガラスや合金の組成・性質、ボルタ電池、溶液の電気分解、電磁誘導など、物理化学、物理学の分野で多彩な業績を残した。
ルドルフ・ディーゼル(独、1858−1913)圧縮して高温度となった空気に軽油や重油など安価な燃料を噴射・発火させることによって、従来の蒸気機関などと比較して高効率の内燃機関(ディーゼルエンジン)を発明、実用機を開発した。
「雑説 技術者の脱炭素社会(改訂増補版)*」より
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