雑説・技術者の脱炭素社会(あとがきにかえて)

 

あとがきにかえて

 人類のエネルギーの利用は、50万年前といわれる火の使用法の発見に始まる。エネルギーは、民族・国家存続の基盤であり、古代のメソポタニア、インダス、ギリシャなどの文明の衰亡は、その主要な供給源であった森林の崩壊を一因としているといわれる。英国産業革命を契機に、エネルギーの供給源は森林から石炭へと大きく変わっていった。今日の用語でいえば再生可能エネルギーであるバイオマスから、有限の資源である化石燃料への転換である。石炭はやがてより便利な石油へとエネルギー供給の首座を譲ったが、石油、石炭の枯渇欠乏は、強弱はかわっても、引き続いて為政者また世人の危惧の対象であった。特に十九世紀末以降、科学者・技術者は、高効率・低コストでそれらの利用をはかるため、熱力学をはじめとする物理・化学の理論構築、また火力発電、自動車などの輸送用機器、鉄鋼冶金、石油化学など実際的な工業システムの開発改良に励み、それは新たな産業を興し人々に豊かな生活をもたらした。その結果、エネルギーの使用量は人口増ともあいまって急激に増大し、同時に資源枯渇の予兆も現実のものとして実感されるに至った。

 50年、100年先の超長期のエネルギーについて、その具体的な需給予測が多く語られるようになったのは、今から30年ほど前、二度の石油危機を経験して10年ほどのちの1990年頃からのようである。例えば、次のようなものであった。即ち、遠からずして石油、天然ガスの減耗が顕在化し、エネルギー供給の主体は寿命の長い石炭へシフトしていく。西暦2100年には石炭がエネルギー供給の主体となって、原子力および水力、太陽熱等の自然エネルギーがこれを補完する役割を担う。当時は自然エネルギーに重点はなく、それも現在の太陽光発電、風力発電とは違って、太陽エネルギーの熱としての利用が主体であり、また原子力は基本的には発電利用のみである。2100年以降は、高速増殖炉、核融合を含めた核エネルギーと自然(再生可能)エネルギーが徐々に石炭を代替していくことが想定されていたろう。これは一例に過ぎないが、石油・天然ガスの枯渇・減耗への対応を中心にした想定である。そして当時既にCO2への関心はあったが、時とともにその比重が大きくなっていく。ちなみに、これより10余年前、即ち1980年代初期には、2050年には早くも太陽熱・核融合時代になるとする予想もあったことを思うと、この分野の超長期予測の困難さがわかる。

 そして今、全くのさま変わりの状況であることは、眼前に見られる通りである。化石燃料の高効率利用や再生可能エネルギーの利活用も、目的は化石燃料の枯渇対策ではなく、同一の効果が得られるCO排出低減の趣旨が強く出されるようになった。同じ技術が「石油1キロリットルの節約」から「CO2 排出量2.6トンの低減」に変わったわけである。更には、「脱炭素社会」として議論されているところは、今は具体的手法が不明の部分はあるが、上記のような想定より一世紀近くも前倒しで、基本的に化石燃料の利用自体を停止することである。具体的には、電力は勿論、運輸、鉄鋼冶金のみならず、現在化石燃料が担っている非エネルギー部分も含めた膨大な量の殆どすべてを、CO2排出に係らない再生可能エネルギー、或いは原子力で賄うこととなる。即ち、本文中にかいた「 ( のう ) ( じつ ) 想ひし行く末 遥々 ( はるばる ) の心算、今日はたちまち厳しき現実課題へと変ぜる」状況に立ち至ったわけである。

 現在は石油文明時代とよばれることがある。例えば、今住んでいる部屋から、化石燃料が関与していないものを除けば、昔ながらの家は別にして、自然に生えた花や草以外、周りには何もない荒地に身一つで裸で立っているということになる。衣料等の化学製品はなくなって当然とは思うが、電気製品、自動車にもプラスチックをはじめ多く石油からの素材が使われている。無機物である硝子、陶器も製造に多くの化石燃料を使う。縁の薄そうな柱などの木製品も、森林からの伐採・持ち出しに石油をつかうし、又かなり前から材木は山からではなく海(海外)から来るからその輸送にも化石燃料を使う。原料から製品の製造、その輸送など、多くの段階で化石燃料が使われている。以前にはよく聞いた類の話である。そういえば、米、肉や野菜も、肥料飼料、農薬などを多量に使い、石油を食べているようなものといわれる位だから、食物からできている我が身さえ残っているかどうか危うい。即ち今、どこかで作られ、そこにあるもので、化石燃料、特に石油の一滴の関与もないものは殆ど存在しない。

 低炭素はともかく、脱炭素をめざせば、現在の産業用・家庭用の熱源も含め、結局はこういう部分が課題となってくる。これがもしさしたる難なく可能であれば、化石燃料など、もともとそれほど貴重でも、またその枯渇減耗の怖れを騒ぎ立てるほどのものでもなかったことになろう。例えば、他の製品はおくとして、脱炭素社会成立のそもそもの大前提である太陽光、風力などの再生可能エネルギーからの発電装置、また原子力発電装置自体を、石油の一滴も使わず、或いは少々条件を緩やかにしてカーボンニュートラルで製造するには、事前にバイオマスや電解水素などをもとにした有機工業化学が相応の実用的体系をもっていることが不可欠であるが、それは実際にはいつ頃可能であろうか。更には、今、時に「できれば夢の技術」と好意的に報ぜられるものも、多くは時間的には厳しいであろうし、また抑々ことここに及んで、今できてもいない技術に大きく頼るのも無責任であろう。

 さて、時期的には上記のあいだ、即ち、再生可能エネルギー利用の拡大が、地球温暖化抑止と化石燃料枯渇の双方に寄与するとされていた今から15年前、著者は次のように書いた。「いずれにせよ化石燃料と再生可能エネルギー利用のバランスをとりながら歩み始める21世紀こそが人類にとって重大な過渡期であることは疑いがない」。重大な過渡期とは21世紀全体との意識で記したものであるが、現今の時勢は、21世紀中期に脱炭素社会を成就させ、しかも化石燃料の相当量は利用せずして地下に残す算段のようである。もとより相応の覚悟と慮りのもとに画されているとは思うが、このような事態に立ち至った経緯や本質するところは、将来の史家がこの大事業を結末とともに記述するに貴重な素材を提供することとなろう。

 森林から石炭、石油、天然ガスの化石燃料、またウランにいたるエネルギー資源の減耗・枯渇は、多くの時代、多くの人々が危惧していたものであった。やや長期的に見れば、予兆はあったものの、今突然に近くCO2問題という思いがけない理由から、化石燃料の利用を自発的に、かつ完全に近くとめることは、現在化石燃料、特に現在石油の担っている役割の大きさを考えれば、人類の文明史からみても一時代を画する目論見といえる。ものごとは単純になったか、入り組んで複雑さが更にましたか、そして今後、具体的にどのような経過をたどるか、CO2の温暖化効果については、多くの技術者と同様一般的知識しかもたず、また所謂エネルギー問題の専門家でもない著者には不分明という以外にないが、僭越憚らずしていえば、実際上の困難は承知するものの、どのような形のエネルギーを利用するにせよ、やはりその少ない消費で生き行くすべを人類、国家、組織、また個々人として早く身につけることを基本とすべきではないかと改めて思う次第である。

参考文献

(1)ルドルフ・ディーゼル「ディーゼルエンジンはいかにして生み出されたか」、山岡茂樹訳、山海堂(一九九三年)、二六六頁

(2)ジョン・パーリン「森と文明」、安田喜憲、鶴見清二訳、晶文社(一九九四年)、三〇二頁

(3)S.リリー「人類と機械の歴史」増補版、伊藤新一、小林秋男、鎮目恭夫訳、岩波書店(一九六八年、原著は一九六五年)、二八五頁

(4)ロバート.J.フォーブス「技術と文明」、田中実、赤城昭夫訳、エンサイクロペデイア ブルタニカ日本支社(一九七〇年、原著一九六八年)、一二八頁

(5)クライブ・ポンティング「緑の世界史」(下)、石弘之、京都大学環境史研究会訳、朝日新聞社(一九九四年、原著一九九一年)、一〇六頁、二七九頁

(6)T.S.アシュトン「産業革命」、中川敬一郎訳、岩波書店(岩波文庫)(一九七三年)、一七九頁

(7)貝原益軒「養生訓・和俗童子訓」、石川兼校訂、岩波書店(岩波文庫)(一九六一年)、四七頁

(7)を除き本文では邦訳をもとに文体を変じて示した。

「雑説 技術者の脱炭素社会(改訂増補版)」より

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(長崎総合科学大学 バイオマス研究室,特命教授 村上信明)